機械翻訳は将来的に翻訳という仕事を奪うかについて
自動翻訳技術の向上と、それによる DeepL や ChatGPT といったツールが広く用いられるようになったことにより、翻訳という仕事が将来的になくなるのではないかと危惧する向きがあります。現時点では少なくとも自動翻訳の精度が90%程度であることから翻訳家の仕事がなくなるということは考えにくいと言えるとしても、今後の進化によってはなくなってしまうのではないか、ということです。
これについて結論から言えば、おそらく翻訳という仕事の必要性はなくならないが、それは市場における需要にもよるところが大きい、というのが現時点での堂本の考えです。この記事では、どうして翻訳者の仕事がなくならないのかという理由をできるだけ客観的に述べた上で、市場における需要維持についても少し触れようと思います。
機械翻訳がどれだけ進化しても人間による翻訳の必要性がなくならないことの理由は、次の通りです。
1: 機械翻訳の精度は決して100%にならないから
機械翻訳は、AI技術などを用いて既存のテキストから学習し、その学習した内容を出力結果に反映することで成り立っています。つまり、機械翻訳が100%の精度になるということは、その学習データが100%正しいものになったときであると言えるでしょう。
しかし、どのような人間も必ずミスをするものです。誤字脱字、文法ミスは、言語に関わらず、どのような人間もゼロにすることはできません。もちろんプロフェッショナルの世界ではそれを限りなくゼロにできるように様々な方略がとられますが、それでも『絶対』を保証することは誰にもできません。つまり、学習元のデータの文法的精度や表現的精度が100%にならない限りは機械翻訳の精度も100%にならないのであり、結局はどれだけ機械翻訳が進化しても人間による見直しが必要になると言えるのです。
機械翻訳の精度が100%にならないとすれば、機械翻訳の出力結果の正しさを確かめられない利用者は『間違っているかもしれない翻訳』で満足するしかありません。しかし、特にビジネスシーンにおいては『間違っているかもしれない翻訳』に対する許容度が高くないことも多いでしょう。それならば、状況と目的に合わせて、知識のある翻訳者が翻訳を行った方がより自然かつ正確な出力が可能であることが多いのです。
まずは精度面で機械翻訳が人間の翻訳者を”上回る”ことはない、これが機械翻訳によって人間の翻訳者が即ち不要とはならない、ひとつの大きな理由と言えます。
2: 自動翻訳は原文を”理解”しているわけではないから
自動翻訳は与えられた原文を参考としたりプロンプトとしたりして、そこから『対応する言葉』を想定し、これを違和感のない順番や表現で出力することで成り立っています。
しかしこれは、例えばまったく未知の言語と出会ったとき、その言語の辞書を引きながら対応する言葉を探して、その言葉を翻訳対象の言語において違和感のない順番に並べているのと変わりません。自動翻訳(および文章生成AI)はこの『違和感のなさ』の再現が圧倒的に上手である一方、前述の例のように、原文を『理解』してその『理解』を出発点にして文章を『考えている』わけではないのです。
もちろん、前述のようなやり方でも、翻訳として出力された内容が用を為すことはあるでしょう。しかしそれは『たまたま上手くいった』、あるいは『たまたま意味が一致している』のであって、『意味が一致するように』書かれた翻訳ではないのです。したがって、原文のメッセージを間違いなく伝えたいというような場合や、翻訳先の言語文化を踏まえてメッセージを伝えたいというような、『字面以上のこと』を考慮する場合、機械翻訳は無力と言っても良いでしょう。
では、今後の技術発展により、これは解決するのでしょうか。個人的には、恐らく難しいのではないかと思います。仮に解決するとすれば、それは人工知能それ自体が意思を持ち、独立して思考し、表現の中に新たなパターンを創造できるようになるときでしょう。しかし私たちは、自分たちが持つこの『意識』すらどういうものかよく分かっていません。よく分かっていないものを自分以外の、人間と異なる構造のものに再現することは、どれだけ譲歩しても今後暫くは望めないのではないかと思います。
3: 人間の翻訳がバリエーションとして価値を残す可能性があるから
仮にとんでもないブレイクスルーが起きて、いわゆるシンギュラリティの後、自動翻訳や機械翻訳を意識や意思のあるAIが行うようになり、その際には人間と同じように原文を理解して行うようになるとしましょう。しかしその場合でも、まだ人間の翻訳にはバリエーションとしての価値が残されるように思います。
例えばある作品について、特定の翻訳者の訳は良いが別の翻訳者の訳はハマらなかったというようなことがあります。このように、翻訳とは必ずしも何かひとつが原文と対応して存在していれば良いというわけではなく、直訳風や意訳風、現代風、古風、超訳、それを越えた翻案、またそれらのあらゆる中間点というように、原文に対して無限のバリエーションの可能性を持ち、またそのひとつひとつが特定の読者にとって価値を持ちます。仮に自動翻訳が文法的、表現的に完璧であったとしても、「それでも人間の翻訳が良い」と感じる人はいるでしょう。
もちろんこの場合には、そのときの自動翻訳や機械翻訳が生み出せないようなバリエーションの翻訳ができることが求められます。これは主にトランスクリエーションやフィクションの出版翻訳などの分野で顕著になるのではないかと個人的には思っています。
最後に: 市場の需要との関係
これまで、自動翻訳技術がどれだけ進化したとしても人間の翻訳が無価値になることはないだろうと考えられる客観的な理由を見てきました。可能な限り、例えば「クリエイティブな翻訳は人間にしかできないから」というような曖昧な概念による主張は避けたつもりです。
ただし、仮にこれまでのことがすべて正しかったとしても、翻訳というものをビジネスとして捉えるなら、それは市場における需要と供給の天秤で量られざるを得ないことも確かです。例えば、『機械翻訳は間違っていることもあるが、それで良いと思うし、人間の翻訳のバリエーションなんて不要』と考える人が市場に大多数になってしまい、誰も『敢えて人間の翻訳に金を出したいと思わない』ということになれば、実質的に人間の翻訳が無価値になったわけでなかったとしても、翻訳家は廃業せざるを得ない可能性が高いでしょう。
そうなると翻訳家は、市場に対して翻訳というものが持つ価値を提供し続け、それが価値のあるものであるということを常に意識してもらわねばなりません。そうでなければ、翻訳が生き残る道はアート(art)としての在り方以外には残らなくなってしまいます。
一方で、それというのは機械翻訳や自動翻訳を腐すような主張ではありません。機械翻訳や自動翻訳という技術それ自体は素晴らしいものですし、より上手く使っていくことで、言語の壁がかなり薄く、あるいは低くなることも期待できます。事実、MTPE(Machine Translation Post Edit)という、機械翻訳を組み合わせた翻訳手法は一般化しており、ある程度の質を犠牲にしつつ、大量の翻訳を短期間で処理することが可能になってきています。
もちろん、前述の理由から MTPE の Edit 部分を担えるのはある程度の能力がある人材(少なくとも機械翻訳を使いこなせる英語力を持つ人材)であるということになります。つまり MTPE という技術は『英語が人にとっての能力の拡張』ではなく、『英語ができる人の業務効率化』であると言えるでしょう。そしてそうした効率化された英語業務の需要は、今後も残り続けるものと考えられます。
追記
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