Lancers(ランサーズ)における”ネイティブ”の翻訳調査
翻訳を外注する際に誰もが一度は考えるのは、ネイティブに依頼した方が良いのではないか、ということでしょう。例えば英語を含む翻訳であれば、英語のネイティブに依頼する方が良いのではないか、と考える人は多いはずです。特に昨今では Lancers(ランサーズ)や Crowdworks(クラウドワークス)、Coconala(ココナラ)といったクラウドソーシングサイトが台頭してきたこともあり、クライアント自身が翻訳者を選ばねばならない場面も多いため、こうしたことで悩んでいる人は少なくないのではないかと思います。
これについて最初に結論を申し上げておくなら、ネイティブである翻訳者がそうでない翻訳者と比較して優秀であるかどうかは根本的には関係ありません。これは同様に、帰国子女であるとか、海外経験が長いとかというようなことも同様です。
もちろん、ある言語についてネイティブであることは有利であることが多いです。特定の言語圏への留学経験や就労経験が長いことも有利に働く可能性は高いでしょう。しかし、それが翻訳技術と結びつくかどうか、つまりクライアントが必要としている翻訳を行える能力と結びつくかどうかは、また別の話ということになります。ネイティブであることや帰国子女であること、海外経験が長いことそれだけで翻訳技術が身につくということはありません。
また、見方を変えれば『日本人の翻訳者』は『日本語のネイティブ』でもあります。そのことは、海外出身の翻訳者が『英語のネイティブ』であることのアドバンテージに決して劣るものではありません。『英語のネイティブ』であることが『日本語のネイティブ』であることよりも重宝されることがあるとすれば、それは英語という技能を特別に見た(あるいは日本語という技能を軽視した)バイアスによるものであると言わざるを得ません。
『自然な日本語』のレベルについて
とは言え、では実際のところ、『英語のネイティブ』はどれくらい『自然な日本語』を書くものなのでしょうか。もちろんこれは人それぞれで、『日本語のネイティブ』であることが『自然な英語を書けない』ことに直結しないのと同様、『英語のネイティブ』だからといって『自然な日本語を書けない』わけではありません。その一方で、日本語はその言語的特性から世界でも有数の難しい言語であるともされています。その事実を踏まえたとき、『流暢な日本語』を書くことは、どれくらい難しいと言えるのでしょうか。
そこで今回は、大手クラウドソーシングサービスのランサーズにて、英語のネイティブであるとしている翻訳者に記事の翻訳を依頼しました。依頼時には依頼者が堂本秋次であることは伏せてサブアカウントを用いた結果、ランサーズにて2件のネイティブ翻訳者の翻訳を得ることができました。いずれの依頼金額も、翻訳料金の相場とは大きく離れていないものの、ランサーズ上での相場はやや上回っている金額となっています。
ちなみにこのグループは、別件の調査のためにクラウドソーシングサービスで翻訳を依頼した際に得られた副次的な属性グループです。得られた翻訳のサンプル全体についてはこちらの【翻訳サンプル一覧】よりご確認頂けます。リンク先には、課題(依頼)として提出した英文、また堂本の参考翻訳も掲載しています。
以下は、そのネイティブの翻訳者から提出を受けた翻訳に対する堂本の所感です。言葉の好みなどにはよらず、できるだけ客観的な事実に基づいて評価を試みています。また、それぞれの翻訳者は匿名として扱います。
ご注意
この評価はすべてのネイティブ翻訳者の質やクオリティを決定付けたり代表したりするものではなく、偶然にも今回の調査で得られた個の翻訳に対する評価であることを予めご了承ください。
加えて、本来であれば以下のようなレビューは翻訳者本人にフィードバックすることで、翻訳者はこれを適宜修正することができ、最終的な成果物のクオリティはさらに高くなることが期待されます。しかし今回は調査のため、敢えて初稿を最終稿として受け取り、これを評価していることをご承知置きください。
Lancers 4400 N
ではまず、翻訳サンプル一覧から “Lancers 4400 N” を見てみましょう。タイトルにある4400という数字はこの翻訳を依頼した際に支払った契約金額(実際にはさらにランサーズで設定されている+5%のクライアント負担の手数料が上乗せされています)で、Nとはネイティブの略です。
翻訳の納品時、この翻訳者は『意訳をしており、原文通りに訳していない箇所もある』としていました。今回の依頼時には『文体などは自由にしてもらって構わない』と伝えてあるので、このこと自体は少なくとも今回は大きな問題ではありません。フェリセット『ちゃん』のような表現には好き嫌いがありそうですが、明確なエラーという程ではないでしょう。
しかし、『明らかにしてくたのです』や『フェリセットちゃんが迎えた宇宙旅行は1963年10月18日という日に始めました』、『彼女が乗えられたのは観測ロケット、ヴェロニク AGI 47でアルジェリアのアマギールにあるロケット発射場から宇宙空間に打ち上げられました』、『この飛行体験は貴重なデータ取得できました』のように、明らかに誤字脱字と思われる箇所や、日本語表現として違和感が強い箇所があり、これを『流暢な日本語』というには無理があります。
続いて、原文と比較して翻訳を見てみましょう。
Felicette's journey to space was a part of France's ambitious space program, aimed at studying the impact of space conditions on biological functions.
無重力状態が生物に与える影響や宇宙における生物学的作用の研究のため、フェリセットはフランスの観測ロケットによって打ち上げられました。
これは、原文にないことを述べています。原文によれば、フェリセットはあくまで『フランスの野心的宇宙開発プログラムの一環』で宇宙に旅立ったのであり、ロケットがフランス製であったかどうかは原文からは明らかではありません。また、原文で言及があったことから、ロケットがフランス製であったことよりも、フランスの研究であったことの方がここでは重要度が高いと言えます。
加えて、次のような翻訳があります。
Selected from a group of 14 cats, Felicette underwent rigorous training for her mission. This training involved acclimatizing her to the conditions she would face in space, including confinement in small spaces, exposure to low-gravity environments, and the rigors of the launch and re-entry processes.
フランス政府はフェリセットちゃんを含め14匹のネコに訓練を行いましたが、フェリセットは穏やかな気質を持っていたので任務を行うネコに選ばれました。狭い空間に閉じ込められたり、低重力環境を耐えたり、厳しい訓練が繰り返され、課されましたが、フェリセットちゃんはこの高い壁を乗り越え、宇宙旅行というチャンスの幕を開けました。
ここでも原文にはない情報が付与されています。まず、フェリセットに訓練を行ったのがフランス政府であるかどうかは原文からは分かりません。加えて、原文を素直に読めば、『14匹の中から選ばれたフェリセットが訓練を受けた』のであり、『14匹が訓練を受けてフェリセットが選ばれた』ことは原文からは読み取れません(14匹全部が受けた訓練とフェリセットだけが受けた訓練もあったかもしれません)。また、『穏やかな気質を持っていた』ことは原文に一切言及がありません。
そのほか、離陸と大気圏突入へのプロセスは翻訳から省略されてしまっています。『宇宙旅行というチャンスの幕を開けました』という日本語も、場合によっては許容できそうですが、恐らく一般的感覚では不自然でしょう。
最後に、以下の翻訳も問題です。
Today, Felicette is remembered not just as a space traveler, but as a feline pioneer who played a key role in expanding the frontiers of human knowledge.
最近では、フェリセットちゃんはただただ宇宙旅行の先駆者としてではなく、人類の文明全体を昇華するのに重要な役割を果たしたネコとして尊敬されています。
まず、『文明を昇華した』ということは原文で言われていませんし、『人間の知識の拡大』についての貢献と『文明の昇華』はまったくの別物で、しかも前者への言及はありません。また、『尊敬されている』かどうかは原文からは明らかでなく、『尊敬』という言葉の強さを鑑みるに、remember をそれと置き換えるのはあまりにも大胆で誤読を誘います。
これ以外にも、ですます調が一致していない、『フェリセットちゃん』と呼ぶときと『フェリセット』と呼ぶときで条件が曖昧であるなど、全体を通しての不自然さも多く見つかります。
もちろん、原文を改編することそれ自体は悪いことではありません。翻訳を分かりやすくするためである、エンターテイメント性を高めるためであるなど、何らかの目的があり、その目的が果たされていれば、翻訳への改編は翻案として許容されることもあります。
実際に、今回の翻訳の『ロケットがフランス製であったこと』や『フェリセットに訓練を行ったのがフランス政府であること』、『14匹の猫はすべて訓練を受けたこと』は、Wikipedia の記事を正しいとするなら事実です。しかし、この翻訳では調べた事実に引っ張られて原文が大きく歪められています。今回はたまたま正しい情報でしたが、もしも調べた事実の方が間違っていたなら、全体の情報の信憑性も大きく損なわれることになります。
翻訳に関連して情報を調べることは、翻訳者としては当然のことであり、それを翻訳に活かすことも何も問題ではありません。しかし、その上であくまで原文を尊重することが求められます。
Lancers 5000 N
続いて、“Lancers 5000 N” を見てみましょう。全体としては、Lancers 4400 N よりも落ち着いた印象で、原文の改編はほとんどありません。
序盤から気になるところを抜き出すなら、『宇宙探査の歴史では、人間の宇宙飛行士と犬の宇宙飛行士について多くのことが語られています。しかし、宇宙に進出した最初の猫であるフェリセットの物語はあまり語られていませんが、同様に重要な物語です』の部分は、『しかし』と『が』が短期間に連続しているため、やや不自然さが漂うきらいがありそうです。ただ、この部分のこうした訳は今回の調査で得られた他の翻訳にも見られたので、この訳者に特別なものではありません。
ただ、こちらの翻訳でもですます調が一致していないことが気になります。ほか、『低重力環境への露出』の『露出』は、『曝露』の方がより言葉として適切である、といったような微妙な言葉のニュアンスにも改善点が見られます。
それ以外には、フェリセットを『彼女』と呼称することへの是非があります。これは原文でフェリセットを代名詞の she で受けていることから来るものですが、日本語では『彼』や『彼女』といった言葉を代名詞として使うことは英語に比べると頻度が少ないと言えます(代わりにその都度名前で呼んだり、あの子、あの人、あいつなどを用いたりすることが多いでしょう)。
加えて、日本語の感覚では、猫を『彼女』と呼ぶことは日常的ではありませんが、これについては例えばフェリセットを擬人化して描写していたり、よりフェリセットに寄り添った結果、そういった表現になっている、という可能性もあります。その場合にはフェリセットという猫を『彼女』と呼ぶことも、それ自体は問題にはなりません。ただしその場合でも、あくまで読者にどう受け入れられるかを考慮した上で、妥当性が判断されることになります。
また、こちらの翻訳にも一部誤訳と判断され得るものが含まれています。『疑義がある』というレベルの箇所を除いて特に明らかな部分だけを抜粋するなら、以下の箇所が顕著です。
Sadly, Felicette's story often remains overshadowed by her canine and human counterparts. Yet, her legacy as a pioneering figure in space exploration is undeniable.
悲しいことに、フェリセットの物語は、犬や人間の対応者たちによって影が薄いままである場合がよくあります。
counterpart を『対応者』と訳していますが、ここでの canine and human counterparts とは、『人間の宇宙飛行士や犬の宇宙飛行士の話』のことを表しています。counterpart それ自体は確かに『対応するもの』という意味ですが、『対応者』では意味が変わってきてしまうため、訳出する上ではかみ砕いてしまう必要があるでしょう。
また、overshadow とは、『〜の影に隠れてしまう』ということです。つまり、『フェリセットの話は、犬や人間の宇宙飛行の話が語られる頻度と比較すると、あまり語られていないし、有名でもない』ということになります。これを『影が薄い』と表現することももちろん可能ではありますが、ここではフェリセットの話と犬や人間の話が対比されていることを訳出する方がベターです。
以上が、英語のネイティブであるとプロフィールに記載があった翻訳者に英日翻訳を依頼した場合の結果がどうなったかについての報告となります。この調査記録からどのような知見が得られるかについてはこれを読む人に委ねることとしますが、ひとつのケーススタディとしては意味があったのではないかと感じています。
ただ重ねてになりますが、この評価はすべてのネイティブ翻訳者の質やクオリティを決定付けたり代表したりするものではありません。あくまで、今回の調査で得られた個の翻訳に対する評価です。
加えて、本来であればこうしたことは翻訳者本人にフィードバックすることで、翻訳者はこれを適宜修正することができ、最終的な成果物のクオリティはさらに高くなることが期待されます。もしもクラウドソーシングで翻訳を依頼し、その内容に納得ができない場合、そのことを翻訳者に誠実に伝えましょう。真に能力がある翻訳者であれば、それを参考に翻訳を調整し、より高いクオリティの成果物を出すことができるはずです。