海外のゲーム(Still Wakes The Deep)が九州弁(長崎弁)で翻訳されたのは、何がまずかったのか
翻訳の作法や考え方などについても関連するところなので Tips の項目に入れるかどうか迷ったのですが、やや時事ネタであり、考えたことの備忘録の感が強いのでブログ枠で更新することにしました。
6月の下旬、Steam で Still Wakes The Deep というゲームの翻訳版が公開になりました。それと同時に X にて、このローカライズを担当した方が、該当の翻訳は九州弁(より正確には長崎地方をメインとした方言)で翻訳したと明かし、これが話題になりました。
それというのは、この九州弁というのが標準語と比較すると理解するのが難しい面があること、また同時に文字起こしされるとある種滑稽に映るところもあって、元々のゲームのジャンルであるホラー感が薄れてしまうことにもなったからです。この翻訳のオーダーはクライアントから受けたものであるため、翻訳者が『勝手に』そういう翻訳をしたわけではないのですが、そういった誤解が起こったためにやや炎上しかかった一幕もありました。
ここでは、同じく翻訳家の視点から、この翻訳がアリと思うかナシと思うか、またローカライズの難しさと方言の取り扱いのリスクについて簡単にまとめておきます。この内容については動画も公開しましたので、よろしければ合わせてご覧ください。
アリかナシか
どちらかで言えば、個人的には『アリ』です。ただし、翻訳の妥当性はあくまで目的から逆算して判断するものであるため、その点を鑑みると、今回の翻訳に方言を取り入れることは必ずしも必要ではなかったと思います。これにはふたつ理由があります。
まずひとつには、海外のゲームをするとき、プレイヤーはそこに『洋画感』とでも言うような雰囲気を期待します。時にそれは、むしろ台詞の直訳であったり、『大袈裟な言い回し』であったりによって表現されるかもしれません。
しかしここで日本の方言を使うと、その洋画感はかなり薄れることになります。方言はあまりにも『日本らしすぎる』のです。特に個性の強い方言であれば、その『日本らしさ』はより強くなるでしょう。
例えばこれが、日本の九州出身というキャラクターが舞台が海外なので英語を何とか話している(が、イントネーションなどが変だというキャラ付けになっている)というようなことであれば、そのキャラクターの翻訳に九州地方の方言を充てることはほぼ百点の回答でしょう。しかしそうでない限り、方言はあまりに身近過ぎて、いわゆる『洋ゲー』の雰囲気を損なってしまう虞があるのです。
また、こうした翻訳は音声で言われるのではなく、あくまで字幕表示でもあります。そのため、やや滑稽に映る面があったようです。この『世界観への没入への失敗』は、ホラーゲームの体験を著しく損ないます。こうしたことを鑑みると、ホラーゲームの翻訳にこうした翻訳を取り入れることがベストな選択であるというケースは限定的だと言えるでしょう。
その一方で、プレイヤーが問題なく没入して世界観を体験できるなら、原文と作者の意向を大事にした優れた翻訳であるとも言えます。なかなか見られる翻訳ではなく、純粋に翻訳というアートにおいて価値が見出される面もあると思います。
原文とクライアントからのオーダー
アートとしての価値は確かに見出される一方、プロダクトの翻訳としてどう判断するべきかは難しいところです。
前述したように、この翻訳はクライアントからのオーダーがあっての対応でした。もちろん、これに対して『本当に方言で翻訳して良いのか?』という逆提案や確認、リスクの説明は、翻訳家からクライアントに対して為されるべき(あるいはそれが理想)であったと思います(それが実際にあったのかは現時点では不明です)。特にクライアントが日本語の方言が持ち得る印象などについて理解していなかった場合には、詳細な説明が必要でしょう。
この場合の逆提案とは、前項のような『ユーザー体験が損なわれるリスク』の説明と、それを避けるための提案ということになります。今回の場合、原文自体に訛りがある設定で、それを踏襲した、『労働者の雰囲気』が出るような翻訳が求められていたので、九州弁の翻訳が実現したという経緯です。
具体的な逆提案としては、例えば『労働者の雰囲気』を出すだけなら、必ずしも方言である必要はなかったかもしれません。仮に粗雑、あるいは粗野なキャラクターを演出したいなら、標準語でもそういう演出は可能だからです。
ローカライズと方言
このように、ローカライズをするといっても、必ずしも『ローカル』に寄せることが最適解とは限りません。あくまでエンドユーザーの体験を念頭に置き、本来原文で得られるはずの体験が再現されているか、あるいは変化する場合には少なくともポジティブな変化であるかが重要です。
僕自身の経験で言うなら、パブリックドメインのラブクラフト作品を翻訳する際、尖った翻訳をすることがままあります。これは自分の翻訳を『バリエーション』として位置づけ、その他多く出ているラブクラフト作品の翻訳と比較したりして楽しめるようにするためです。ラブクラフト作品にも『移民』や『労働階級の人』の言葉が出てくるので、それをどう訳すかは翻訳者目線でも楽しいところでもあります。
しかしその際、あくまで読者にとって『読めること』は基本的には変わらず重要であるとも思っています(稀に、“読み難いこと”が価値を持つ場合もありますが)。そのため、何らかのチャレンジングな試みを仕込むときには、長編ではなく短編に限定し、その短編がイマイチでも他の短編を楽しんでもらえるよう、短編集でのみそうした翻訳を行うことでバランスを取っています。
ラブクラフト作品以外でも、『不思議の国のアリス』を(原作の作者視点ではなく)アリスの一人称視点で訳すという試みを行ったこともあります。しかしこうした『独自性の強い翻訳』は、既にこの『不思議の国のアリス』が既に多数の翻訳がある中に存在するから許されるのであり、例えば僕が世界で初めてこれを訳す立場だったなら、そのような改編は到底受け入れがたかったはずです。これについての記事や動画は【こちらから】ご覧頂けます。
また、方言の翻訳自体について、特定の地域の方言を別の地域の方言に翻訳すること自体が的を射ているかどうかという問題もあります。例えば今回の場合、『スコットランド訛り』と『九州弁』はまったく違う言葉であり、翻訳によって結んでしまって良いのか、という懸念ということになります。
この辺りの総合的な判断をすることが翻訳の判断であり、また同時に経験と知識が輝くところでもあると思います。有り体に言うなら、この辺りは DeepL や ChatGPT、Claude などのサービスでは対応が難しい、プロの力の見せ所でもあるでしょう。
最後に
色々書いてきていますが、今回の翻訳がチャレンジングなものであることは間違いなく、また同時に、チャレンジングであるからこそ、アートとしての価値が見出されるものでもあると思います。また、原作者や依頼者の要望や意向を最大限汲み取ろうとした結果であることも間違いありません。この翻訳が完全に『悪い』ものだとは思いませんし、この翻訳をしたことが担当した翻訳家の方にとってネガティブな影響を残さないと良いな、と思います。