翻訳の成功事例および失敗事例のまとめ
翻訳という仕事を細分化(または専門化)するとトランスクリエーションやローカリゼーションという言葉が出てくる通り、そしてトランスクリエーションやローカリゼーションにはSEOやマーケティング、ブランディングの要素が必ず含まれる通り、翻訳とは単に『原文を訳す』ことができれば良いものではありません。
昨今、DeepL や ChatGPT、Claude などのAIを用いた翻訳ツールの性能が上がったことや、Lancers(ランサーズ)や Crowdworks(クラウドワークス)、coconala(ココナラ)などのクラウドソーシングサービスでも手軽に翻訳を外注できるようになったことから、ビジネスの場において翻訳というものが当たり前になってきました。しかしだからこそ、こだわるべき価値があるときには基本に忠実で慎重な翻訳が求められます。そのとき、過去や最近の翻訳事例からどのようなアプローチが適切かを考えることには意味があるでしょう。
この記事ではアネクドート的な翻訳の逸話から最近の翻訳事例まで、翻訳の成功事例と失敗事例を見ていくことで、翻訳を行う際(あるいは発注する際)に失敗しないようにするためのアプローチについて考えます。
逸話的な翻訳事例
以下は、都市伝説的なものも含む、翻訳について語られるときに多く引用されるアネクドートです。実際の出来事かどうか真偽が定かでないものも含まれますが、翻訳について考える上での重要な示唆を含むものであるため掲載しているものもあります。
1: KFCの翻訳事例
ケンタッキーフライドチキン(KFC)のキャッチコピーは “Finger-Lickin’ Good” です。直訳すれば『指を舐めるくらい美味しい』ということですが、日本ではこの “Finger-Lickin’ Good” がそのまま使われています。これが中国語に翻訳されたとき、直訳しようとして『指を食べちぎる』のような表現に誤訳されたというのがKFCで過去にあったと都市伝説的に言われている誤訳騒動です。
これの真偽の程は定かではありませんが、少なくとも “Finger-Lickin’ Good” を中国語のスローガンとして翻訳しようとした初期の試みが、“Finger-Lickin’ Good” という英語のカジュアルさやフレンドリーさを伝えることには失敗していたことは確かだとされています。そのため KFC は、後に中国では『指を舐める(くらい美味しい)』という見せ方を改め、美味しそうなチキンのイメージを使うようになりました(日本でも同様のイメージがよく使われています)。この一例は、単純に翻訳をするのではなく、現地に合わせたやり方や表現が必要であるという、一見すると当たり前ながら見落とされがちな事実を示すものだと言えます。
2: ペプシコーラの翻訳事例
Pepsi がキャッチコピーとして “Come alive! You’re in the Pepsi Generation.(訳例: 元気ハツラツ! キミもペプシ世代)” というスローガンを中国語に翻訳したとき、「ペプシがあなたの祖先を墓場から呼び戻す」と誤訳されてしまったとされる、これも一種の都市伝説的な話です。
KFC と同じくこれも真偽が定かではない内容ですが、少なくとも機械翻訳を用いたり直訳をしたりすることのリスクや危険性を示すストーリーとして語り継がれている点は確かです。
3: Nikeの翻訳アプローチ
スポーツウェアブランドの Nike は、現地のカルチャーに合わせてタグラインやマーケティング手法を柔軟に変更していることで有名です。厳密に原文と一致させるような翻訳ではなく、感情に訴えかけられるようにメッセージを再構築しつつ、現地の言葉のニュアンスも取り入れています。
4: Airbnbのブランディング事例
民泊サービスの Airbnb は、中国でのブランド名を “爱彼迎 (Aibiying)” として、現地の言葉(漢字)を用いることで『愛を込めて歓迎』というメッセージを伝えることを試みています。これは一種のブランド名のトランスクリエーションであり、ただ純粋に Airbnb という音に漢字を当てはめるだけでない価値を生み出しています。
5: Electrolux の翻訳事例
掃除機ブランドの Electrolux は、”Nothing sucks like an Electrolux” というタグラインを公開しました。直訳するなら「Electrolux のように吸えるものは存在しない」ということで、sucks と Electrolux で韻も踏んでいて良いように見えます。
しかし suck にはスラングで「最悪」という意味があり、この意味合いで全体の意味を取り直すと、「Electrolux ほど最悪なものはない」という意味にもなってしまいます。思いも寄らない意味が身近な単語にあること、文脈によって異なる解釈がされてしまうこともあることから、簡単に思える言葉選びでも注意が必要な場合があると言えます。
最近の翻訳事例
ここからは、比較的最近の翻訳事例についてまとめます。ゲームの翻訳、小説の翻訳、タグラインの翻訳など内容は様々ですが、多くの翻訳事例に応用して考えることのできる事例ばかりです。
1: Still Wakes The Deepの翻訳事例
これについては以前に Blog の方で記事を書いているので、詳細についてはそちらを合わせてご覧ください。簡単に言えば、あるホラーゲームの日本語版が九州弁(長崎弁)で翻訳されたものの、ユーザーからの評判が振るわなかったという事例です。
ここでユーザーからの評判がいまいちだったのは、翻訳の質が低かったからではありません。九州弁での翻訳は、ユーザーが期待していたゲーム体験を大きく損なう結果になってしまったのです。一方、デベロッパー(ゲーム開発者)はこの翻訳を(内容が分かっていたかどうかは別として)気に入っており、クライアントの意向に沿った形の翻訳であったことは確かでもあります。
翻訳において重要なのはその翻訳がどのように受け止められるかを念頭に置くことであり、表現したいことを表現しようとするとユーザー体験が損なわれてしまうこともあるという事例だと言えます。
2: 城砦の翻訳事例
これは、ある小説を小説家が翻訳した際に「翻訳というよりも作家として書く作業に移っていった」とインタビューで発言していることが、少なくない数の翻訳者の注意を引いたという事例です。これについても Blog の方で記事を書いているので、よろしければご参考ください。
翻訳者の一部がこれに批判的に反応したのは、そうした翻訳者が『翻訳は原文に忠実であるべき』という主張を持っていたり、件の小説家の英語力を疑問視したりしていたことが大きな要因のひとつとなっています。記事の方でもこの辺りの前提条件は揃えて意見を述べていますが、少なくとも『翻訳が原文に忠実であるべき』かどうかは場合によると言って良いでしょう(もちろん、この議論をする前に少なくとも “忠実” の意味を定義し、またどこまで寄せれば “忠実” なのかもコンセンサスが必要ですが、この辺りは緩く了解されているものと仮定します)。
実際のところ、この新訳となっている城砦は Amazon のレビューでも非常に高評価で、旧訳のファンと思われる読者もこの新訳を受け入れている面があります。どの程度のアレンジが認められるかはケースバイケースですが、ひとつの翻訳の成功事例としてカウントできる一例であると個人的には考えています。
3: iPhone 13 のタグラインの翻訳事例
iPhone 13 が発売されたとき、そのタグラインとして『スーパーキラキラカラフルクキリディスプレイ』が採用されていたことから、多くの人がその採用理由に興味を持ちました。そして後に、その原文は SupercolorpixelisticXDRidocious という一語で、これはメリーポピンズという映画で使われている最も長い英単語のうちのひとつ、Supercalifragilisticexpialidocious のオマージュであったことが明らかになりました。
この SupercolorpixelisticXDRidocious をもちろんそのまま翻訳することはできず、多くの試行錯誤が行われたことと想像されます。その結果、原文の『楽しさ』や『ポップさ』を表現する形で、敢えて『スーパーキラキラカラフルクキリディスプレイ』という訳語が選ばれたものと堂本は想像しています。
一方で、SupercolorpixelisticXDRidocious というタグラインはメリーポピンズを知らなければ意味が分からないタグラインであり、また同時に翻訳しにくく、マーケティング効果が一定にならない可能性が高いとも考えられます。その意味ではオリジナルのタグラインに問題があったとする見方も可能で、非常に興味深い事例だと言えます。
4: クラシック作品の再翻訳
堂本自身も、ラブクラフト傑作集や短編集を始めとする様々な翻訳を独自に行っております。この翻訳はアートとしての翻訳、バリエーションとしての翻訳に位置づけるものであり、様々な表現やアプローチを自由に取り入れた翻訳となっています。
この翻訳は個人が独自に翻訳したものとしては異例の売れ行きとなっており、またレビューも概して肯定的です。一方でコメントを見てみると、「ラブクラフトの重厚なはずの文章が軽く感じられる」というコメントと「読みやすい」というコメントが混在していたり、その一方で「読みやすいわけではないと思う」というコメントがあったり、「読みやすいのに同時に重厚感があり、翻訳の力を感じる」とされるSNS上での評価もあるなど、評価は一様ではありません。
このようなことから、翻訳もまたひとつの表現であり、自由な表現を試みれば万人に認められる翻訳をすることは難しいことが窺えます。逆に言えば、よりターゲットを広く取るには翻訳のユニークさのレベルを下げる判断をする、あるいは万人に好かれる翻訳をするよりもターゲットを定めて行う翻訳に振り切るといった形で対応することが求められるとも言えるでしょう。
5: その他の事例などについて
これ以外にも様々な事例があり、これについてまとめたオンラインイベントを行ったこともあるほどです。その際に用いたスライドのオンライン閲覧URLを発行しましたので、よろしければこちらから合わせてご覧いただければ幸いです。
上記以外の事例や事例研究のスライドは【こちらから】ご確認いただけます。
以上のように、一口に翻訳といっても求められるアプローチや価値はケースバイケースであり、その時々で最適な判断をすることが求められます。判断の基準となるのは主にその翻訳がどのような目的で用いられるか、また誰がその翻訳を目にするかといった点ですが、それ以外にも無数のポイントがあり、優れた翻訳者はこれを瞬時に、あるいは吟味の上で判断して、最も良いと考えられる翻訳を行います。
翻訳業務が発生した際にはこのような様々な価値を天秤に掛けて判断し、また外注する場合にも、そうした判断を十全に行える翻訳者に依頼するのが良いでしょう。