夏川草介氏の『城砦』の翻訳スタンスの話

神様のカルテスピノザの診療室といった著作で知られている医者兼作家の夏川草介氏が、初めて翻訳に挑戦し、A.J.クローニンの城砦(じょうさい)を手がけた話が話題になっています。

この本について夏川さんに取材をした日系BOOKPLUSの記事の中で、夏川さんは『城砦』を翻訳する上で「作家として書く作業にだんだん移っていった」と述べており、同著の既存の翻訳でも原文にないストーリーやエピソードが挿入されていることから、そうした翻訳姿勢を参考にしたと語っておられました。

この記事が公開されたのは2024年7月25日ですが、9月15日頃より、この記事に対して「原文に忠実でない何が翻訳か」や「それは創作であって翻訳ではない」や、「原作者へのリスペクトが大事だ」といった声があがっています。

この件について、翻訳家の立場から思うところをまとめておくことにしました。ただ個人的に原作と該当の本を比較して読んだわけではないので、以下は翻訳のクオリティ自体は問題とせず、『翻訳家は原文からどこまで逸脱して良いのか、またどういう条件ならそれが許容されるか』について、記事で言われている内容を元に考えることとします。

前提から組み上げていったので、かなり長くなっています。休憩しつつ、お暇なときにご覧いただければ幸いです。


結論を先に言えば、『件の主張とスタンスに対する自分の理解が正しければ、個人的には問題は感じないし、新たな試みの元に行われた翻訳としての評価が待たれるところだろう』ということになります。現時点(2024/09/16)では Amazon のレビューも好調のようで、少なくとも読者の反応は良いようです。

しかし、翻訳者の原作への介入を手放しで『何でもあり』にすることはできません。そこで、この問題を考える上で何を考慮するべきか、主に先の記事の内容を踏まえて考えていきます。

ただしその前に、その考察の大前提が4つあります。


1: 作者と原文へのリスペクト

最初の大前提、この後の話をする上での絶対的な条件が、『翻訳家は作者や原文へのリスペクトを当然持っている』ということです。したがって、夏川さんもこうしたリスペクトをもって翻訳したものと僕は想定しています。

作者の表現や原文をリスペクトし、これを蔑ろにしないことは、原文を預かる身として当然であり、当然であるが故に、問題にはしません。

これに関連し、「リスペクトがあるなら〇〇をする・しないはず」という反論が有り得ますが、その〇〇がある・ないからといって、夏川さんが作者や原文に対してリスペクトをしていなかったことの証明にはなりません。

もちろん、原文を愛する人から「リスペクトを感じられるような訳文ではない」というフィードバックは有り得るでしょうし、表現者として翻訳家本人はこれを受け止めねばなりません。しかしそれは翻訳の質や対象読者といった問題で扱うべきことであり、他者からは本来決してわかり得ない内心の話である「リスペクトの有無」についてはどうしても水掛け論になってしまいます。

「本当にリスペクトがあるなら云々」の論調は、本来あるかもしれないリスペクト自体の軽視に繋がることもあります。そのため、結果としての訳文がどうあれ、夏川さんは作者と原文にリスペクトを持っていたと信じることにします。

2: 翻訳物は究極的な意味では「翻訳者の解釈の産物」にならざるを得ない

どれだけ『原文に忠実』な翻訳であったとしても、それは『翻訳者が原文を読んでイメージしたことや、理解した(と思っている)内容』の言語化に過ぎません。そしてこの『翻訳者の解釈』がどれだけ妥当なものか、翻訳者には説明責任があると僕は考えています。例えばそれは、「原文に忠実に訳している」ことの説明として、原文の文構造と文法的解釈を説明する、といったことである場合もあるでしょう。

端的に言えば、翻訳者の解釈が常に正しいとは限りません。しかし、『原文が意図していたであろうことに限りなく近い解釈をし、それを伝えてくれるだろう』というのが翻訳者に寄せられる期待であり、これに応えるのが翻訳者としての仕事であると言えるはずです。

したがって、「自分で解釈をせずに、原文に忠実に訳すべきである」という批判は無理筋であることになります。『書くべきこと』が頭にない状態で文を書くことはできないように、直訳だろうと意訳だろうと、原文を解釈せずに翻訳することは原理上不可能であるからです。

ちなみにいわゆる DeepL や、昨今の ChatGPT や Claude、Gemini といった生成AIによる機械翻訳は、この『解釈』というものをしていません。その代わりに、確率的に最もそれらしい訳語を自動的に出力しています。その意味では、「余計な解釈を挟まずに原文に忠実に訳すべき」という主張にとっての理想的な翻訳は機械翻訳ということになってしまいます。

しかし解釈を挟まない弊害として、常識的に考えれば分かることを理解しないまま訳文を出力したり、確率的に正しいものをランダムに出しているだけなので『ハズレ』を引いたり、そもそも学習データが不充分であるため『当たり』を引く確率も期待できない数値であったりします。解釈を挟まない翻訳の正しさが解釈を挟む翻訳と比較して有意に高いのでなければ(むしろ低いのであれば)、『あるべき翻訳』の理想のために敢えてそれを選ぶ必要はないでしょう。

さらに余談ですが、『原文に忠実に訳すべきである』という命題そのものについても、『忠実に訳すとはどういうことか』や『どこまで “忠実” に訳せばそれを達成できるのか』といった点での意見の一致が必要になります。そしてこれについては、そもそも原文と『完全に一致』するような翻訳は有り得ないという立場もあり、個人的にも『原文に忠実に訳す』は『原文へのリスペクトを忘れてはならない』という意味合いが大きいように感じることが少なくありません。

ちなみに翻訳不可能論については、『詩の翻訳について(萩原朔太郎)』、『クワイン(丹治信春)』、『翻訳の生理・心理(神西清)』、『翻訳について(岸田国士)』、『翻訳製造株式会社(戸川秋骨)』、『翻訳者の課題(ヴァルター・ベンヤミン)』などで触れられています。

3: 翻訳者の英語力が、その翻訳をするのに充分である

ある翻訳を行う上でどの程度の英語力が必要か、また翻訳家にとってどれくらいの英語力が必要か、という話はケースバイケースであり、立場などによって考え方も変わってきますが、少なくとも今回のケースでは『城砦』を翻訳する上で夏川さんの英語力は充分であったという前提を取ります。

記事の中で夏川さんは「自分は英語が得意ではない」という旨の発言をしていますが、これは英語ができる人に特有の謙遜として個人的には捉えています。

4: 権利関係・当事者の心情の問題は解決している

『城砦』はパブリックドメインではありませんが、作者は既に亡くなっている状態です。そのため、著作権は切れていないものの、作者との摺り合わせは事実上不可能であったという状況です。

可能ならば、翻訳者は原作者に対して解釈などの確認をしつつ、より良い表現を探っていくのが最高の環境です。しかし今回のように故人であったり、原作者側の時間が取れないなど、それが叶わないことは珍しくありません。

今回のように翻訳に工夫を凝らしたケースでは、著作権を管理する側がその結果に納得しているかどうかは翻訳家としての職業倫理上も重要なところです。しかし記事からはここについての情報を確認できないため、仮に『権利者の法的にも心情的にも問題はない』ことを前提とします。


前提を置いたのでかなり前置きが長くなっていますが、こうした前提を踏まえたとき、初めて次のような問いを得ることができます。それは、『翻訳者に最大限のリスペクトがあり、能力にも不足がなく、権利関係もクリアしているとき、また翻訳をする上で解釈が不可欠であるとき、翻訳者にはその上でどのような翻訳が許されるだろうか』ということです。言い換えれば、『どのような翻訳、あるいは変更は妥当と言えるのか?』とも言えるでしょう。

こうした翻訳の妥当性を判断する上での考え方として、翻訳の目的を達成するためのある程度の創意工夫が許容されるべきではないか、という立場があります。そしてこうした創意工夫を『翻案』と言ったりします。このあたりの説明については翻訳研究のキーワードという本に詳しいので、ご参考頂ければ幸いです。


読み手に期待されている翻訳であるか?

特定の翻訳の妥当性を判断する上での重要な要素のひとつに、『読み手に期待されている翻訳であるか?』という点があると僕は考えています。

今回の場合、『短い文章に慣れている若い人にも楽しく読めること』を一番の目標にしていると、記事の中では語られています。そのゴールのための『ある程度の創意工夫』として今回加えられた変更が『ある程度』に収まるものかを考えるのが焦点となります。

具体的にどのような変更が加えられたのか、記事を確認してみると『オリジナルの情景描写を挿入した』ことや『現在の日本の状況と100年前のイギリスの状況が異なることについて、脚注で補わなくて良いように地の文で説明した』ことが言われています(ちなみに、『原文にないストーリーやエピソードの追加』は過去の翻訳に行われたと言われているものです。これについては後述します)。

仮にこのふたつの変更について検討するなら、どちらも先に紹介した参考文献である『翻訳研究のキーワード』の中で『翻案』の一種であるとされる『拡張』に属するものと言えます。オリジナルの情景描写を挿入したのは「(原文で明示されていなかったが了解されている)時間の経過が分かりやすいように」ですし、脚注で情報を補足しなくて良くしたのも、『情報の明示化』であると言えるからです。

したがって、あくまで原文を理解する上での手助けということであれば、この辺りの判断そのものについては問題はないのかと思います。

もちろん、原文を愛する人にとって、こうした原文に対する『拡張』は「期待していた翻訳」ではなく、批判の対象となることはやむを得ないでしょう。それでも、あくまで目的が「短い文章に慣れている若い人が楽しく読めること」であり、これが達成されているなら、この翻案は成功していると言えます。

ちなみに今回の場合、『夏川草介』という作家のネームバリューも商品価値に含まれると考えられます。したがって、夏川さんの小説家としての文体が好きだという読者も当然いるはずで、そのあたりの期待に応えることも、翻訳の際にどういったアプローチを執るかの妥当性判断に寄与すると考えられます。

過去の翻訳との差別化、またクラシック化について

この『城砦』という作品は、過去に既に翻訳されたことがある作品です。そのため、新たに翻訳をする上では、多かれ少なかれ差別化が意識される面もあったかもしれません。ただし、一般論的に言えば、原文に対して極度に脚色が強いようなら、その点については読者に対して明かしておくのがフェアではあるでしょう。

もちろん、別人が訳すだけでも当然翻訳の色は違ってきますので、新訳を試みるだけでもある程度の差別化はできているとも言えます。旧翻訳を読んで「よく分からなかった」という人が、今回の翻訳を読んで「面白かった」と言うなら、これは成功と言って良いでしょう。ただそれでも、市場にとって分かりやすい『新しい価値』を提供しようと考えるとき、意識的に差別化を考える面もあったかもしれない、ということになります。

個人的にはそうした過去の翻訳との差別化や、バリエーションとしての翻訳には価値があると思っています。クラシックとなっている旧版の翻訳と比較することで楽しんだり、新たな発見を得たり、より自分に合った文体の翻訳を見つけたりできるかもしれません。そうした選択肢が読者側に生まれることは、良いことであると思います。

ただしそれは、あくまでクラシックな訳が手に入る状態であれば、という条件があってのことです。例えばある小説を翻訳するとき、自分がその第一人者になるのであれば、自分の翻訳がクラシックになります。その場合、読者は『その物語を、できるだけ原作に近い形で楽しみたい』と考えているはずで、これに応えるような翻訳でなければなりません。

今回の場合、クラシックの翻訳は存在しますが、それは絶版になっているということで、今回の翻訳が新しい世代にとってのスタンダード(ゆくゆくはクラシック)になる可能性があります。その面を重視して、できる限り原文に足し引きしないように訳出する方が良いのではないか、という立場もあるはずです。

余談: 過去の翻訳と『城砦』の原文改訂について

過去に行われた『城砦』の翻訳には原文にないストーリーやエピソードがあると記事では言われています。しかし『城砦』は改訂前のテキストと改訂後のテキストがあるということで、過去の翻訳は『改訂前』のテキストを原文としています。つまり、『原文にないストーリーやエピソード』だと思われていたものが、実は『改訂後のテキストにはないだけで、改訂前には存在していたもの』である可能性もあります。

とは言えもちろん、ここまでの翻案の妥当性についての検証はそれと離れたところで行ってきたので、そのことの真偽は、ここまで論じてきた翻訳にある程度の翻案が認められるという主張に影響を与えるものではありません。

そこでここでは仮に、旧翻訳のクラシック性を検討する上で、実際に『城砦』の旧翻訳(竹内道之助氏によるもの)に実際に翻訳者判断での加筆があったと仮定してみます。

仮に『城砦』の過去の翻訳に原文にないストーリーやエピソードを挿入していたとすると、それだけにスタンダードとしては認められにくく、クラシックになりきれていない部分があるかもしれません。このとき、もし差別化するというのなら、この過去の翻訳に対し、『より原文をそのまま訳出する』というスタンスで翻訳をすることも、同じく差別化になったと言えるでしょう。選ぶかどうかは別として、その選択肢があったことは事実だと思います。

原作者の主張を “想像” することについて

記事の中で、夏川さんは次のように語っておられました。

クローニンという人が魅力的な人なので、敬意を払って最初はできるだけ忠実に訳したのですが、所々に、恐らく本人が書きたかったけれど書ききれていないんじゃないかと思うところがあった。

この考え方に基づいてどれくらいの加筆や変更があったかは原文と実際の訳文を照らし合わせてみないと分かりませんが、ここはグレーゾーンよりの発言だと感じています。

前述したように、翻訳には翻訳者の解釈が必ず入り込みます。これは翻訳というプロセス上、仕方がないことです。しかし、翻訳者の解釈が必ず正しいとは限りません。究極的に言えば、ある文で作者が何を言いたかったかは、作者以外には分からないからです。

そのため、翻訳者が独自の解釈を推し進めて妥当性を説明できない加筆や変更をすることは避けなければなりません。特にそれが作品のテーマ全体に関わるものであるなら、非常に慎重な判断が必要になります。

正解を確認できないことについて、人は自分の正しさを確信できず、“信じる” ことしかできないのです。

したがって、この点については「クローニンが伝えたかったのだろうと夏川さんが思ったこと」の強調になっていることに注意が必要です。この点が明確であれば、「夏川さんなりのクローニンの解釈に基づいた翻訳」ということで問題にはなりません。その場合の意見の一致・不一致は、解釈の違いに帰結するものになるからです。しかし、「これがクローニンの言いたかったことだ」という主張であるなら、その自信と根拠には疑問が呈されることとなります。


かなり長くなりましたが、個人的に本件について思うところは以上のようなところです。

翻訳家にどれくらい原文の変更が認められるかについてはシビアな線引きがケースバイケースで求められるでしょうし、業界的にもかなりチャレンジングな試みだと感じています。翻訳という仕事の誤解に繋がりかねないところもあり、例えば『翻訳って適当に書き換えても良いのか』というような誤解が生まれないようにしなければなりません。

またそれと同時に、あくまで夏川さんが翻訳者として当然期待されるリスペクトや矜持をもって仕事に臨んだのであり、翻訳とは何かを理解した編集者が監修した結果生まれたものなのであれば、こうした挑戦に『翻訳』としての何らかの価値も認められれば良いな、と思っています。


Akitsugu Domoto

Translator, wordsmith, speaker, author and part-time YouTuber.

https://word-tailor.com
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