英語ネイティブの翻訳者が不適切なアニメローカライズをした件について
Tips の項目に入れるかどうか迷ったのですが、個人的な意見に近く、翻訳に関連する『ヒント』というわけでもないので、Blog の項目で書くことにします。
アニメのローカライズを海外の翻訳者に依頼した結果、不適切なローカライズが行われてしまったことが話題になっています。話題になっているといってもこうした問題はずっとあったようで、ここ数ヶ月でついに表面化した、というのが大筋だということです。僕自身は「まぁ、そういうファンメイドの翻訳とかもあるかもしれないな」と思っていたのですが、どうやらプロに依頼した結果であるということで、これについて思うところを書き残しておきます。
この問題で考えるべき争点は、『翻訳者はどこまで原作に手を加えて良いか』という点、もうひとつは『こうした翻訳が起こってしまったことに対して、発注者側はAI翻訳を使用することを進めている』という点です。
ちなみにこの問題においては『ローカライズ』(あるいはローカリゼーション)という言葉が頻繁に登場し、件の翻訳者(ローカライザー)は翻訳とローカライズを分けているようですが、実質的にはローカライズは翻訳(あるいは翻案)の一部であるので、ここでは便宜上、翻訳という言葉をメインに使います。
また、この件について動画も公開しました。内容はほとんど同じですが、よろしければ合わせてぜひ。
翻訳者はどこまで原作に手を加えられるか?
例えば翻訳をする際、原文の内容だけだと情報が足りなかったり言葉足らずになってしまったりすることから、その内容を補足することがあります。これは翻訳を分かりやすくするための工夫として許可されるでしょう。
ローカライズというのもその一環で、一例として海外では有名なパロディやフレーズが用いられているのをそのまま翻訳しては日本の人には伝わらないので、日本での同等の位置づけの表現に置き換えてしまう、というようなやり方があります。分かりやすいのはことわざの翻訳で、Time flies. を直訳すれば「時間は飛ぶ」ということですが、これでは日本語で読んだときに意味が分かりにくいため、「光陰矢の如し」に置き換える、といったようなものです。
このように、適切な条件下であれば翻訳者は原文に対してある程度手を加えて表現を調整することが許されるのが一般的です。僕自身も、翻訳とは原作に対するバリエーションであり、翻訳者によって様々な翻訳が存在することはむしろ文化的には豊かなことだと考えています。
では、今回はなぜ問題になったのでしょうか。
翻訳者の権威性
上記のような翻訳の工夫(あるいは翻案やローカライズ)は、あくまで原文の内容を伝えること、原文の良さを引き出すことなどを目的としています。そして多くの場合、オーディエンス(翻訳を読む読者や、その動画を見る視聴者など)は、翻訳を無条件に信頼します。つまり翻訳者は、オーディエンスから、「翻訳を読めば、(ある程度)原作の内容を楽しめる」ことを当然のこととして期待されています。このとき、原作と異なる内容が含まれているというのは、オーディエンスにとって完全に予想外のことです。
つまり、例えば翻訳者が自分の思想を強く出して翻訳したとき、それを受け取るオーディエンスは、「原文にそうあった」のだと感じます。そのことは、原文にないはずの思想色を植え付けてしまうという点で、原文を誤解する結果になると言えるでしょう。そして原文を誤解させてしまうような翻訳は、どのような翻訳でも誤訳、あるいは少なくとも悪訳です。
ましてや、原文を活かして自分の思想や考えを広めようというのは、translation や localization というよりも、plagiarism(盗用)です。
件のローカライザーの主張
今回問題になっているローカライザーはひとりではないのですが、そのうちのひとりは、「自分の翻訳は原作通りに楽しみたい人向けの翻訳ではない」としています。確かに、『原作通りに楽しみたい』人のための翻訳と、『翻訳者の解釈として翻訳を楽しみたい』人のための翻訳が、それぞれ存在するとすれば、それ自体は悪いことではありません。
しかし、前述のように、翻訳者は基本的に無条件に信頼されています。そのため、件の思想色の強い翻訳を与えられたオーディエンスが、『自分は想定されたターゲットではない』と気付けない可能性は相当にあると言えます。
また、特にオフィシャルの翻訳に近い場合、原作者がそれを許可しているものとオーディエンスは当然考えます。そのため、より翻訳を疑いにくくなります(そもそも翻訳が疑われることが望ましいことではありませんが)。
こうしたことを踏まえると、翻訳者は、自分の翻訳がどのようなポジションにあるものかを考えなければいけません。大胆なバリエーションが許されるのは、あくまでベーシックなものが広く利用可能であることが前提と言えます。
僕自身もホームズやラブクラフト、不思議の国のアリスなどを翻訳しており、既存の訳とは意識的に毛色を変えていますが、これが可能なのは既にホームズやラブクラフト、アリスについて様々な翻訳が利用可能である状況があるからです。仮に堂本秋次がシャーロック・ホームズやクトゥルフの呼び声、不思議の国のアリスを『世界で最初に訳した人』という立場であったなら、独自色の強い翻訳をすることは望まれていないでしょうし、適切な判断とは言い難かったはずです。言い換えれば、バリエーションとしての翻訳は、基本的にニッチであるべきだとも言えるかもしれません。
こうしたことを踏まえると、件のローカライザーの主張は、翻訳者に期待される態度ではないと言わざるを得ません。
AI翻訳を使用することの是非
上記のような問題を受けて、発注者側がAI翻訳の導入を進めている(そのため、翻訳者には発注が来なくなる)という流れも生まれています。個人的には、これは理に適った対応だと思います。
もちろん、AI翻訳(DeepL や ChatGPT の活用も含む)によるコンテンツの翻訳は、ひとつひとつの作品を味わいたい人にとって理想的ではありませんし、精度もプロの翻訳者とは比べものになりません。しかし、そもそも市場が『次々に作品やコンテンツを消費していく』トレンドにある中、『ある程度質は劣るが、とにかく速く翻訳できる』という機械翻訳やAI翻訳というツールは見事にその需要に応えています。
このとき、『そもそも作品を丁寧に味わうべきである』とか、『原作を大事にするべき』というのは市場のトレンドに対しての警句であると考えられます。つまり、「市場がそれを求めているなら、AI翻訳はその需要に応えられる可能性が高い。しかし、本当にそういう市場で良いのか?」というのが問われるべき本質であるように思います。
AI翻訳のクオリティ
もちろん、AIの翻訳をする上でも、本来はその翻訳内容を人間がチェックする必要があります。誤訳がないか、また適切な表現になっているかを『人の目』でチェックすることで、ある程度のクオリティを担保できるはずだからです。こうした行為は MTPE(Machine Translation Post Edit)と呼ばれ、これが本当に効率的なやり方であるかどうかについては議論の余地がありますが、翻訳の手法として確立されつつあることは確かです。
しかし今回、人間が入ったことによって思想も入り込んでしまったことが問題になっています。そうなると、『誰が機械翻訳のチェックを行えるのか』ということになり、人間の翻訳者(また、そのレビューを行う人)への信頼が揺らぎかねないことになってしまいました。このような点からも、今回のローカライザーの行為は許されるものではなかったと言えます。
以上が今回の問題についての個人的所見です。
AI翻訳の是非について補足しておくと、個人的にはこういったものが広く使われることはもうメインストリームとして受け入れるべき段階にあるように思っています。ただその一方で、原文を正しく理解し、その味を様々に表現できる翻訳者に任せることで、『ハイクラスな翻訳のバリエーション』を提供することも、一種の贅沢として見直されると良いな、とも思っています。
もちろん、そもそも本来は機械翻訳を使うことが望ましくないコンテンツや原文が存在することも確かです。翻訳者だけでなくそれぞれのユーザーが適切な翻訳の手法を理解することが重要ですが、それは多くのユーザーにとって煩雑な知識に違いないので、難しいところであるなと思います。